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中野区の変遷と由来等

中野区の変遷
 
現在の中野区の区域に入る江戸時代の中野村・本郷村・本郷新田村・雑色・上沼袋・下沼袋・新井村・上高田村・上鷺宮村・下鷺宮・江古田・片山村の12ヶ村は、慶応四年(1868)武蔵知県事に属し、同2年2月9日品川県、同4年7月14日東京府に編入、同5年5月22日神奈川県へ移動、同8月19日東京府に戻入、同6年7月28日地租改正公布。
同7年3月8日大区小区制により第八大区に編入。同11年「郡区町村編制令」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により中野村・野方村が成立。同29年東多摩郡と南豊島郡が合併して豊多摩郡となる。同郡に所属。同30年中野村が、大正13年野方村が町制に移行、昭和7年東京市の20区増設により同市に編入されて中野・野方両町が合併して中野区発足。区名は中野町が中野駅を中心に発展していて農村だった野方町を半歩リードしていたので中野区に落ち着いた。中野の「中」と野方の「野」の合成だといえなくもない。
このときの町名数は中野60・野方17。同35年の住居表示法により町名改正・街区番号整理が進み、同52年までに19町となり現在に至ってる。
 区役所は中野駅北口の中野4丁目。友好姉妹都市は北京市西城区と福島県常葉町(ときわまち)。図書館は8館、中央図書館は充実しており、歴史民俗資料館も小ぶりながらまとまりがある。私設文化施設としておもちゃ美術館、嫁菜の花美術館があり、古刹は宝仙寺、成願寺、福蔵院など。哲学堂は東洋大学の前身、現在は市民公園となっている。刑務所跡も平和の森公園に生まれ変わった。さて新宿区の落合地区(上落合・中井・中落合・下落合・西落合)は中野区に入れる予定だったが「中野は田舎だから」とワガママをいい、押しかけ女房よろしく強引に新宿区(当時淀橋区)に潜り込んだ。それで中野区と新宿区の形が歪(いびつ)なのだ。かつての中野は犬小屋・スパイ養成所・刑務所・結核療養所と暗いイメージが漂っていた。落合が逃げたのもむべなるかなか・・・戦後は犬繋がりでスパイ養成所は警察学校とはなったが、結核療養所(国立中野病院)は役目を終えて今はなく住宅団地と公園になるようだ。刑務所は公園と汚水処理場に変わった。小学校30(私立2)、中学校20(国立1、私立5)、高校13(国立1、私立7)、国立は東大付属。大学は東京工芸大学のみ、短大は三つ。

中野区の由来
 中野郷。武蔵野の真ん中にある郷の意だ。熊野那智大社の御師米良家の古文書群(米良文書)に初見する。すなわち貞治元年(1362)『武蔵国願文』だ。次が応永二十七年(1420)の『江戸氏庶流書立』に、「中野殿・阿佐谷殿」が見える。

 武蔵野の中なるゆゑ中野といふ。往古はこの武蔵野も上野・中野・末野といふあり。今上野・末野所在詳らかならず

 と『求涼雑記』にはある。別には善福寺川と妙正寺川の中の郷の意でもあるとか。慶長のころ江戸幕府により郷を分解して中野諸村が起立、その諸村の一つが中野村。伝説代よれば天慶二年(939)に「中野の原」で平将門の弟将頼が討ち死にしたという。

中野長者伝説
 応永年間(1394~1412)に紀州熊野の神官家の出自を持つ鈴木九郎重家(成願寺では九郎と重家は別人としている)がこの地を開拓し「中野長者(朝日長者)」と呼ばれて本町2丁目の成願寺(正観寺)を開基したという。紀州海草郡藤白の荘司鈴木重倫は熊野三山に奉仕して源氏の恩顧を受けた。そのため子の重家は源義経を追って奥州平泉向かい義経に従ったものの、義経は兄頼朝の軍に攻められて行方知らずになってしまった。遺体がないことから蝦夷(北海道)に逃れたとも、さらにモンゴルに渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったとも伝説は語られる。日本の家紋の総てのデザインはペルシャの遺跡に見られるらしいが、たった一つ「笹竜胆(ささりんどう)」だけが無いという。ところが数百年前からあるというモンゴルの建物には「笹竜胆」と同じデザインが描かれている。おいらも雑誌か何かで写真を見たことがある。高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』はこの義経伝説を題材にしたもので、とても面白い歴史ミステリーだ。
 そんな訳で主を失った重家は当てもなく放浪しやがて中野に辿り着いて苦労の末朝日長者となった。この人は実在の人かどうかは判らないが、いろんな逸話を残している。その一つが蓄えた財産を隠すために下人に黄金を運ばせて神田川を越え今の十二社熊野神社の辺りに埋めたが、その場所を知る下人を殺して帰ってきたので、神田川近くでその往来を見ていた者が怪しんで川に架かる橋を「姿見ずの橋」と呼んだ。今の淀橋だ。ところが九郎の娘小笹が婚礼の前日突然蛇となり、十二社温泉のところにあった弁天池に身投げしたが遺体が発見できなかった。それで「姿見ずの橋」と呼んだという別の説もある。とにかく強欲の重家は娘の入水を受けて悔い改め、南足柄市関本の古刹最乗寺の舂屋宗能(しゅおくそうのう)禅師に懺悔して救いを求めた。禅師が早速池の端で祈祷すると果たして小笹が元の姿に戻って冥土へ旅立ったので、重家は禅師に帰依し、名を正蓮と改め、隠した黄金で中野成願寺と七つの塔を建て、熊野十二所権現を勧請し、大久保から高田までに散在した仏供養の百八塚を築いたという。108は煩悩の数。
 明治維新まで戸山町にあった世外寺の役者堂には、重家の笈(背負い箱)と法螺貝が残されていた。伝説は好き者の創作だろうが鈴木家は存在した。七塔の一つ三重塔が戦前まで区立十中の角地にあったが戦災で焼失、最近青梅街道に面して立つ名刹宝仙寺の境内に再建された。なお中野を開発したのは堀江氏で、代々杉並・中野の総名主を務め、累代の墓所が宝仙寺にある。
 鈴木姓は紀伊熊野の一族の名前で、熊野権現の宣教師として全国各地に散り、そして土着したことにより、全国区の名字となった。特に東京には紀州人が多く移住した。隅田川・豊島・王子・飛鳥山など、和歌山県にある地名が数多く移されている。