【キタミ】喜多見の由来 1丁目~9丁目

「きたみ」は「木田見・北見・喜多見」などに書かれるが、初出は木田見が嘉元二年(1304)、喜多見が永禄二年(1559)、北見は『小田原衆所領役帳』である。この地は相当古い開発で古代集落の遺跡もある。北は、『地名の語源』『日本地名事典』などによると「きだ」で、自然堤防または階段のこと。喜多見は国分寺崖線上にあり、多摩川の北方にあって河岸段丘をなし、遺跡も集中していて要件を満たしているが、「きたみ」の「み」は何のことやらさっぱり判らない。「曲(み)」=動詞「見る」の連用形から山・川・海岸線などの折れ曲った所をいう(大辞林)のか? 方向を示すとすれば、「多摩川の北方または北側」の意だろうか? 上北沢と同じ「陽のあたる斜面」の意か? アイヌ語説では「キタモッタイ、またはキタッモイ(森に覆われた広い平坦地)のだという。確かに成城学園がやってきた頃はそんな様子だった。鎌倉時代に秩父平氏の一派がやってきて木田見を名乗り、同じ秩父平氏の江戸氏は衰退後喜多見氏としてこの地を領有し、江戸城紅葉山に開いた菩提寺大沢院東福寺を移して寺号を慶元寺と改めた。慶長・元和の屈辱を忘れぬ意かな? とにかく寺は現存している。江戸期には入って喜多見藩二万石を知行して大名に列したものの、元禄二年(1689)刃傷事件を引き起こして断絶した。喜多見陣屋は喜多見3・4丁目。本村は5丁目だ。
喜多見村。明治22年「市制町村制」により神奈川県北多摩郡砧村の大字。同26年北多摩郡は東京府に編入。昭和5年東部の大半を割いて喜多見成城とし、同11年砧村が世田谷区に吸収されて同区喜多見町。同46年新住居表示により喜多見町の大部分に宇奈根町・大蔵町の各一部をあわせた町域を現行の「喜多見」とした。この一帯には次太夫堀公園・知行院・枝垂桜の宝寿院・須賀神社・慶元寺・氷川神社・稲荷塚など観光目玉が集中し、村の中心がここにあったことを示している。だから喜多見は5丁目だ! 次太夫堀公園は世田谷の萱葺き農家などを移築保存している。管理は、近所の元農家の人たちが、区に雇われてかどうかは判らないが、やっている。




