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【オオクラ】大蔵の由来 1丁目~6丁目

 大蔵は財務省の前身を大蔵省といったように律令制度において朝廷の財務会計を司った役所、延暦七年(788)二月中宮太夫従四位上朝石川臣豊人(なかつみやのだいぶじゅしいのじょういしかわのあそみとよひと)を兼武蔵守として七月に大蔵卿とした(続日本紀)。これを受けて『江戸名所図会』では「国守(くにのかみ)は府中に居るものだが、武蔵府中は多摩郡にあり大蔵村は荏原郡だが、両郡は接しており府中も近いので豊人卿が住んだのだろう。それで大蔵村の名が起こったのではあるまいか」と推測しているが、まず第一国家の大蔵大臣が武蔵国に居てどうするの? この頃は「遙任」といって国守に任ぜられても赴任せず代わりの者(目代)を生かせてちゃっかり得分(職務給)だけ懐にするという、いつの時代も高級官僚の性根は知れたもので、だから石川豊人が武蔵に住む訳もなく、まして国府に住まないで弩田舎に住むか? しょむない。この豊人さんはお忙しいことに神功皇后が三韓征伐の時に見つけたという鈴石を持ってやってきて大田区に磐井神社まで造営している。 「小倉・小椋・大蔵・大倉・小蔵・御蔵・宮本は木工品を作って生活していた者(木地師・轆轤師)に限る姓で、この地名の多くは彼らによって山間の集落に付けられた」(山中襄太郎『地名語源辞典』・柳田国男『故郷七十年』)。前記の姓について「この名が木地師の山村集落に多いのは、近江国愛知郡小倉を本拠として全国各地に材料を求めて移住したためで「おぐら・こくら」は「小高い台地」からきた言葉である」(鏡見完二・明克父子『地名の語源』)。それで当地大蔵はというと大蔵城跡もあり、過去は森林だったろう風情だ。中でも石井戸(いわいど)地区は現在でも木地師の住み着きそうな佇まいを彷彿とさせる。土地の旧家石井家の先祖は源頼朝の重臣安達盛長の孫景盛の次男石見守兼周で武州荏原郡石井郷(大蔵)を賜り石井(いわい)を名字とした。その兼周は鎌倉の大蔵ヶ谷を故地としたというから、大蔵は木地師に因むのではなかろうか? 石井戸にはざっと数えても石井家が20軒はある。大田区の下丸子は椀を作ることを生業とした丸子部の部民が住み着いたという。

 大蔵村。明治22年し「市制町村制」により北多摩郡砧村の大字。昭和11年世田谷区に編入して大蔵町。昭和46年新住居表示により大蔵町・北見町・鎌田町・岡本町・玉川瀬田町・玉川用賀町3丁目の各一部をあわせて現行の「大蔵」とした。
 大蔵といえば大根という時代があった。大根畑の続く大蔵原は、冬の木枯らしから春の花散らしまで風が吹く度に砂塵濛々としてそれはそれは大変だった。信じないか?

  風面(かざおもて) 朱に吹き立つ春真昼 ゑぐき埃に食厭(じきいと)うなり(白秋)

 大蔵の地は、多摩川・仙川の低地に接した良好の地で早くから人々が住み着いた。3丁目に縄文時代早期の大蔵遺跡があり、4丁目にも同様の遺跡が見られる。