【アカツツミ】赤堤の由来 1丁目~5丁目

赤堤の初見は、天正十二年(1584)賢幸法師が高野山金剛峰寺の宝塔院法印文清から権律師(ごんのりっし)に補任(ぶにん)され光林山持明院西福寺の号を許された証書だが、この奉書の上書に「赤堤村西福寺」と書いてある。この時の村は現在の松原を含んでいた。村内を今は暗渠になった北沢川と赤堤川が流れており、赤堤川の北面にある六所神社は奈良時代の砦跡だといわれる。ただ川と同位の低地にあるので疑問を抱く声もある。北沢川と赤堤川の流路跡はほぼ路地または歩道の形で残っている。ただし昭和五十年代後半に改修されたので必ずしも江戸時代の流路ではない部分もある。ところで善性寺から西は高台で、以前は赤堤村字陣屋跡(江戸時代、左兵衛以来旗本服部氏がここに陣屋を置いていた)といい、「砦山」と呼ばれたところである。この砦山の周辺あるいは一部の低地に防水と防御を兼ねた堤(土塁)が築かれていたが、その堤が赤土だったことで地名が起き、やがて室町時代に七人衆によって村が開かれるとその村名に採用された。赤堤川と北沢川は砦山の東で合流し東へ流れていくが、赤堤そのものは川の西側、世田谷村字前田の内(豪徳寺1丁目52~54番の辺り)を中心に築かれていたのでは? 現在残ってないので知る由もない。別に赤堤川の土手をいい、近年まで世田谷線松原駅の北側に残っていたという説もある。赤堤川は松原3丁目の弁天池(現在は埋め立てて児童遊園)を谷頭とし、流路跡はほぼ完全に明渠、道路、路地、閉塞地の形で残っている。
荏原郡赤堤村。明治22年「市制町村制」により荏原郡松沢村の大字。昭和7年松原村の一部をあわせて世田谷区赤堤町1~2丁目。同40年新住居表示により赤堤町1~2丁目に松原町3~4丁目・世田谷町2~3丁目・上北沢町1丁目の各一部を併せた町域を現行の「赤堤」とした。




